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広瀬敏通アーカイブ(1)「阪神大震災に思うこと」 |
広瀬敏通 |
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モデレータ 状態: オフライン 登録日: 2009年06月30日 投稿数: 20 |
阪神大震災に思うこと 記:1995年3月2日
1月17日から今日までマスコミからは膨大な数字が流れ続け、しかも日々膨らんでいく。 ぼくたち現代人はいつしか自分の気分を言い表すのに『今朝は100万ボルト』とか言い出すのだろうか。 「数」という記号に秘められた無数のドラマや触感を読み取れるほどにデジタル化した思考回路を持っていないぼくは、数字の洪水に自分の感性が麻痺しないうちに行動を起こすしかなかった。 被災直後の災害地では、個人で行動するよりも集団のほうがより効果的に仕事できる。 チームプレイによって大きなセクションを担うことが出来る点や、継続性、組織性で優れている。ぼくは自分が所属している複数のネットワークに連絡をとり、即日『救援委員会』が発足し、その2日後、調査団として神戸にいた。 宝塚、西宮、芦屋と被災地を回り、大混乱の行政窓口や避難所を幾個所も精力的に訪ね歩いた。被災直後の現地は確かに大混乱といってよかったが、しかし、無秩序ではなかった。 喧騒の中に不思議な落ち着きが見えた。よく見てみるとこれは、不眠不休で頑張っている各所のリーダーたちから醸し出されたエキスのようなもののせいなのかもしれない。 どこも手が足りず、疲れていた。避難生活も遺体と同室であったり、着替え一つ出来ない(部屋も廊下も空き空間のない)環境で、人々の置かれた状況は劣悪といえる。 しかし、ある種の高揚感、すがすがしい人間性が支配していて、最悪の状態を免れているように思えた。そうした避難所のリーダーたちから『ここも大変だがもっとひどい所がある。そこを助けてくれ』と言われた場所、神戸市東灘区にぼくたちは向かった。 そこは凄まじかった。100%近い家屋の倒壊率。道はどこも崩れた家の残骸でふさがっていた。3ヶ所の大規模避難所を見たうち、最も混乱を極めていた「東灘小学校」を活動の拠点に据えることを決め、校長、PTA会長、自治会、区職員(どれも機能してはおらず、肩書き無しの自然発生的なリーダーシップがあった)との話し合いで、即日行動を開始した。 避難所には人、人、人があふれ、何がどこにあり、誰が何をしているのか分かり得るシステムは無かった。 小学校は災害時の避難所になると決められていても、そのための準備も訓練もなく、事前の打合せなどといったものが有り様はずも無い事態の中で、突如、人で埋められてしまったのだ。とりあえず、避難所の機能を整理することから仕事は始まった。 教員、区職員、住民、ボランティアの各々の役割を決め、相互に助け合う形を作ること。避難所生活者と周辺住民が出来るだけ苦痛の少ない形で生活できるために、可能なことを「計画的に」行なうこと。 しかし、実際はつまづき、突き当たり、方向転換をしながら手探りで、状況を作るより状況に流されることの多い始末を繰り返しながら、どうやらミーティングを作り出せた。 このような状況下では、コミュニケーションはとても大事であり、それを作るための合同ミーティングは是非とも必要だった。 濃縮された時間が此処には流れていた。日常とは比べることも困難なほど、次々と事態は変わり、今朝の出来事は遠い過去となり、昨日は幾日も前のように感じられた。 ぼくの若き日に味わったことのある戦場や非常事態下に見られる異常な緊張と高揚が感じられた。 ポンポンと飛び込んでくる新展開の事態にはマニュアルなど意味が無い。「臨機応変」の即断即決での処理能力が本領を発揮してくる。普段の仕事では『打合せと違う』などとスタッフからは評判の悪いアバウトな方法がこの場では最も役立つ。 野外教育やキャンプは本来、非常時に備えるトレーニングから始まったことを考えると、ぼくたちが此処で働けるのは当然の役割だし、日々、そのために腕を磨いてきたと言っても過言ではない。少なくとも一般の生活者よりはこうした事態への感性は鋭いはずだ。 ボランティアを「無償の行為」と訳す日本では、組織的かつ機動性のあるボランティア団体は育ちにくいとぼくは考えてきた。個人の自発的自由意志による活動は、いわば「善意」が要(かな)めとなるので、長期的な計画性や統率力ある指揮体制に馴染まない。 責任というカテゴリーの外に従来の日本のボランティア活動はあったと理解している。 今回の阪神大震災では、被災直後から「不慣れな(当たり前なのだが)」ボランティアと被災住民との間でさまざまな摩擦が生じた。それはなんと、「善意」が摩擦発生源となったケースが多い。日常、福祉の現場などでは、無理せず、ボランティア自身のペースにあわせた活動がおこなれる。だが一転、災害地での緊急活動となると、個々バラバラではなく、出来るだけ一元化した指揮系統の中で、最も効果的な活動を限られた時間内にこなすことが求められる。 『私はこうしたい』よりも『今はこうしなければならない』ほうを優先させる行動が必要となる。現場ではこの部分の行き違いが多く目に付いた。たびたび『僕はこうしたい。私はこれはいやだ』式の思考法にぶち当たった。 ボランティアについての日本人の考え方もそろそろしっかりした骨太なものにしていく時が来ているように思う。 カンボジア内戦時にぼくは長期間、現地駐在した。出来たてのNGOとして、またその後は政府機関の職員として。その折に世界各国のNGOや国連機関の活動に自らも参加しながら体験したことは、今回の阪神大震災での活動に役立った。 今回とくに印象的だったのは、海外の医療や救助などの緊急支援チームを日本の役人が『世話が大変なので』断ったという事件だ。日本人のボランティア観がよく表れている。 普通、緊急支援活動を行なう専門チームは、食も野営も自前で準備している。 さらに優れたチームプレイをこなす。全体が効率よく目的意識に沿って活動する。 決して、混乱下の役人の世話を必要とするような曖昧な仕組みでやってくるのではない。 しかも有給なので、不必要な気づかいも無い。この「有給」というのは、緊急時を脱したのちの中長期支援ではとくに威力を発揮する。 カンボジアは世界の主要なNGOをはじめ、日本国内の多くのNGOにとっては誕生の地ともいえる役割を果たした。 今回、「阪神大震災」に駆けつけたボランティアは数十万人に達する。しかも、国内津々浦々から寄せられた義援金や物資は、無数の人々の心と存在も感じさせてくれる。 乱暴に言えば、「阪神大震災」はこの国ではじめての本格的な「市民ボランティア」を生み出すキッカケになるかもしれない。 そんな手ごたえを「東灘小学校ボランティア本部」でひしひしと感じた。 次々訪れる主婦や学生、社会人、そしてさまざまなサークル。ぼくには『もう足りています』と彼らを門前払いにすることは出来なかった。 もしかすると、この1日の体験がキッカケとなって生涯に亘り、ボランタリーな活動に参加することが始まるかもしれないのだから。 緊急支援活動といっても、つまりは人と人、心と心の関係をどう作り上げるかという、人間の生きることそのままの行為に過ぎない。ぼくたちは机上のゲームをしているのではなく、生身の体とすすけた顔とかすれた声で、顔と顔をつき合わせて活動している。 此処で大事なことは温かい笑顔であり、心の通う会話だ。それが仕事を成し遂げるうえでどれほど効果的であることか。生き延びた人々は、涙をいやと言うほど流すことだろうし、ささくれた雰囲気の中で荒げたいさかいもちょくちょく起きる。せめて第三者のぼくたちは笑って活動したい。 人災だとか、首相の政治責任だとかのかしましい論議を傍で聞きながら、政治家の責任の擦り付け合いをウンザリと耳にした。いま必要な仕事が脇に置かれている気がしてならなかった。そして40日。冷たいコンクリートの床で、干すことも出来ない冷えたせんべい布団に横たわりながら、弱い立場の人はあくまでも弱く、咳き込みながら待っている。 ぼくは笑おうとしても顔も引きつる。 なぜこの日本で、年老いた人々が1月17日と変わることなく放置されているのか。 もはや「人災」というよりほか無い。 (掲載誌・不明) >>次のレポート |
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